旧約聖書のカインとアベルの物語の現代版として、キルギスの山村を舞台に描いた本作。ティーチイン(Q&A)には詩人やジャーナリストとしても活躍するダルミラ・チレプブルゲノワ監督が登壇した。
監督 サルタナットとおばあちゃんの間には会話がなく、話をしても直接的な会話ができていない。それは本来であれば2人の間にはお母さんというもう一人の女性が世代的にあったけど、お母さんの不在で世代間に隔たりがあるからです。鏡はつながりがないことを表しています。
―弟が死んだと思ったシーンで、入れたお茶がずっと流し込まれていますがその意図はありますか?
監督 お茶を注ぐシーンでは、主人公のケリムは弟が死んでしまったと思い込んでいます。岩を採掘する場所が暗く、けがれた場所のように思えて、そこから逃げ出してきました。お茶に注がれる長さが、彼の内面、心情を表しており、その後に聞かれるであろう恐れている質問までの時間が、たとえ1分でも永遠と感じてしまうわけです。
―お葬式で借金を放棄するか聞くシーンがありますが、そういう風習なのですか?
監督 キルギスの風習として、お葬式で「この者には借金があるか?」と確認します。もしあった場合は家族が肩代わりをすることを宣誓します。そうしないと借金問題の行き場がなくなってしまう。この世代で肩代わりして終わらせるということを含めて確認します。
―ワゴンに乗って遠回しにお兄さんを責めるシーンがありますが、彼の中で弟はどうなったのですか?
監督 本作は兄弟のお話ですが“善悪”をテーマにした映画ではありませんが、ありがちな兄弟の話を描いていると思います。兄のケリムは、弟がかわいがられていて、嫉妬心や逆恨みの気持ちが悪化してしまって「お前なんか死んでしまえばいい」と思ったことから、自分がそう願ったからそうなったと責めています。ここでは、行動するかしないかではなく、心の中で思うことも用心しなければいけないのではないかということを示しています。そして、弟がどうなったかは気になるところだと思いますが、弟のアマンという名前は、キルギスでは「ALIVE(生きている)」という意味がありますので、そこに私の想いを込めました。本作には2つの夢のシーンが出てきます。1つ目はバスの中でほかの乗客が「お前に罪はないんだぞ」とケリムに言います。これはケリムの願望です。しかし「自分は殺人者じゃないんだ」と思うと同時に「いや、殺したのはお前だ」と思っている自分もいる。その中で葛藤しています。たとえ自身が手にかけなくても、言葉で殺すことができる、または殺したに等しいという気持ちを表しています。そして2番目の夢は、ハッピーエンドでこうなったかもしれないというもの。だけど、ケリムの嫉妬心からぶち壊してしまったという叶わなかった夢でもあります。
―キルギスは石の文化のようですが、石人はどういう意味を持っていますか?
監督 石の文化なのですが、いま岩を山から切り出すことで土砂崩れが起きたり、自然破壊につながるのが大きな問題となっています。キルギスの文化において石は非常に象徴的です。国の90%が山と石のエリアなのです。この作品も、乾燥した冷たいミニマルな空気を出したかったので、ここをロケ地にしました。山にはいろいろなタイプがありますが、むき出しで寒々とした山にしました。彫った石人はバルバルと呼んでいます。お墓などに使うわけではなく、戦いなどで敵に敬意を表して掘るものです。本作でケリムの敵は自分自身です。私のメッセージとしては、ケリムはバルバルを掘ることで嫉妬心や恨み、憎しみを乗り越えて賢くなって、これから愛を創造し、生み出す力に恵まれるということを込めています。